『世論とメディア』②

この著はアメリカで1922年に発行され大変有名になった。例えば政治家が気にする《よろんは今どっちを向いているか》と問うとき、そもそも世論とは一体何なのかを知らなければならない。辞書を引くと“世間一般の人々に共通した意見”とある。これが私たちが思っている大方の考え方で、この大衆の意見がどうやって作られていくのか、この過程をリップマンは詳細に分析して著したのがこの『世論』でなのある。
この著は世論生成の仕組みというか絡繰(からく)りを我々に気付かせてくれ、将に目から鱗を落としてくれるのがこの本である。解説者の堤氏は“大変怖い内容が記されています。”と言う。
日本語ではよろんは以前は「輿論」と別の字を書いていた。〈輿〉の字はこれは《おおぜい》《もろもろ》との意味があり「輿論」とは“みんなで一生懸命担いで理性的は判断に基づく公的な意見”と見られていました。それに対して「世論」の方は“せろん”と呼び、何か気分のようなものではっきりと形成された意見ではないことを指していたのです。かっては「輿論」(よろん)と「世論」(せろん)は使い分けがなされ、区別されていたのです。それが最近はごっちゃになって「輿論」が使われなくなり「世論(せろん)」が“よろん”になって区別が曖昧になってしまったのです。
私たちは自分の意見だと思い込んでいるものは、じつはメディアからの受け売りだったり真実を無視した自分の想像力の所産だったりすることが多いのです。

『どんな人でも自分の経験したことのない出来事については自分の思い描いているそのイメージか喚起する感情しか持つことは出来ない。したがって他人の行為を真に理解しようとすれば、彼らが知っていると思っていることはどういうことかを自分は知らなければいけない』『ある条件の下で、人々は現実の事態に反応するのと同じ強烈さで虚構の事柄に反応する。また多くの場合人々は自分たちが反応する当の虚構そのものを創造するのに一役かっている』とリップマンはいうのです。
この認識は真の現実とは異なるのでリップマンは「疑似環境」と呼びました。人は知らず知らずのうちに自分が作り出した「疑似環境」の中で行動する。「我々はたいていの場合見てから定義しないで定義してから見る。」ともリップマンはいうのです。
だからこそこの定義の存在によって我々は外界の騒がしい混沌状態の中から手っ取り早く我々のために定義してくれているものを拾い上げるのである。そしてこうして拾い上げたものを我々の文化によってステレオタイプ化された形のままで知覚し自分の考えと信じ込んで住まうのです。
「ステレオタイプ」とは型に鉛を流し込んで作った版のことをいい、我々はついつい自分の手持ちの型に当てはめて物事を見ようとしてしまうのです。さりとてステレオタイプが絶対不動のものというわけでもない。『外からの刺激は特に文字や話し言葉であるときはステレオタイプの体系のいずれかの部分を呼び起こす。そのため刺激による実際の感覚と先入観が同時に意識を満たす。青色のカラスを通して赤色を見ると緑に見えるのと同じように、実際の感覚と先入観は混じり合う。
われわれが現に見ているものが我々の予測していたものとうまく一致していれば、そのテレステレオタイプは将来にわたっていっそう強化される』」とリップマンは言う。
『ちょうど日本人はずるいと前から知らされている人が生憎と不正直な日本人とたまたま続けざまに出くわしてしまったような時がそれてある』
もし現実の経験がステレオタイプと矛盾すときは、彼が柔軟性を無くしている人の時はその矛盾を規則につきものの例外であると鼻先であしらい、証人を疑い何処かに欠陥を見つけ、矛盾を忘れようと努める。また好奇心が強く開かれた心の人であれば、その新しい経験は頭の中にある画像の中に取り込まれそれを修飾することが許される。
「我々の注意はそうしたステレオタイプを支持するような諸事実に惹かれる」リップマンは育った環境や教育で、それを通して自分のステレオタイプに近いものを正しいと判断するのは、現実の姿を正しく捉えたものではないというのです。
2018年5月24日
直 晴児

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